「予告」 今日ネットラジオをやるかもしれません。 |
「予告」 今日ネットラジオをやってます。 『さとラジ』番外編 〜文殊レイディオ〜 http://www.ladio.net/ladio.html |
「終了」 8月2日の午前0時ごろに開始したラジオですが、午前3時を持ちまして終了しました。 もし、高校の頃からの友人などが聴いていた場合、聴いていた人にとってはかなり面白かったのではないかと思います。それは内容がどうこうというよりかは知っている人間がラジオをやっているというその事実そのものが面白かったのではないかと思います。 実際、私は知っている人のラジオを聴いたことがありますけども、知っている人がやっているというだけで聴こうという気にさせられました。 今回やることとなったラジオは、やること自体はそこそこ前から話になっていたのですが、事前に音楽を用意したりだとか話す内容を考えたりだとかはしませんでした。 それで思ったのは、事前にある程度内容を考えてやるラジオもいいいのかなぁということです。そうすることによってグダグダになったりするわけでもなく、内容を充実させることができるでしょうからね。 ただ、その一方で成り行きに任せてやるラジオもそれはそれで面白いところがあるなと思います。あらかじめ内容が決まってない分、あちこちに話のいく可能性があり、そうやって繋がっていった話は結構面白いものになるような気がします。成り行きに任せるといっても、常に話題に困っているようだと面白くないのでしょうけどね。 今回ラジオを聴いてくれた方、ありがとうございます。 |
「ネットラジオについて」 ネットラジオは、やってどうこうするという事が目的というよりかは、ネットラジオをやることそのものが目的になるような気がします。 |
「思索に耽るのが好き」 時々、つらつらと友人との関係に思いを馳せることがあります。 それは、友人の言葉に対してどのような意味があるのか考えてみたり、会っている時にどんな事があったかを思い返してみたり、自分がその友人に対してどう考えているかを自分で考えてしてみたりすることです。 別に結論が出るようなものではなくて、ただただ次から次へと思いつくことをずっと辿っているだけのことなのだが、それが何だか「面白く」感じるのです。 咀嚼するように、何度も同じ言葉について考えてみるのだけど、当然自分が考えているので同じ答えが出てくるのですが、そういった一見無駄とも思えるような時間の過ごし方が好きなのです。 そうやって色々と考えることによって、自分なりに友人との関係について考えを深めているのかもしません。…自分自身、何でそんなことが好きなのか分かりませんけどね。 |
「愕然とさせられる」 ここ数ヶ月の間、運動という運動をせずにいて今日久しぶりにちょっと体を動かしてみました。 すると、以前は出来たようなことが出来なくなっていて愕然とさせられました。例えば、前屈は以前ならとりあえず手が地面についていたのに、今やってみると手をつけるのに一苦労したりだとか、座った状態で足の裏同士をくっつけて前かがみになるやつが以前は地面に頭についたものが、今は頭をつけるのに一苦労しました。 後は以前一時期筋力トレーニングをしていて、それを今になってこなそうと思ったら全然できなくなっていました。 体を使っていないとどんどんと体力や筋肉がなくなっていくのをまざまざと見せ付けられた瞬間です。これではいけないと思い今1度筋力トレーニングやなんかを始めようかなと思います。 前回は5ヶ月続きましたが、果てして今回はどの程度続くことか。 |
「目標探し」 とりあえず筋肉トレーニングを始めたのですが、無謀にも以前やっていたものをやろうと試みてみました。 ・腕立て15回×3 ・背筋20回×3 ・ダンベル(10kg)10回×3 ・手首でダンベル(5kg)上げ下げ10回×3 ・腹筋30回×3 ・スクワット30回×3 よーし、頑張ってやるぞー! … …… ……… …腕立て15回×3すら出来なかったよ_| ̄|○ |
「目標」 以前やっていたトレーニングですが、どうして始めたのかと言えばあまりにも運動をしていなかったので、これではいけないなと思い立ってやり始めたのです。 それで目標はといえば、漠然と引き締まった体になったらいいなという程度でやっていたのですが、目標が大まかすぎたのか途中から徐々にやらなくなり、ついには全くやらなくなってました。 今回もまた以前と同様、たるんだ体にならないようにしたいという理由から始めようとしているわけですが、また同じような経過を辿るような気がしてなりません。 目標がはっきりしていた方がやる気も出るのかもしれませんが、如何せんこれと言ってはっきりとした目標がなく、何かないものかなと考えています。 … …… ……… …………ありました。見つけました、目標を。 目標:以前と同様のトレーニングをこなせるようになること …何か間違っている気がして仕方ありません。 |
「聞かれても困る」 「最近、どう?」 こう聞かれることがしばしばあるのだけど、こう聞かれる度に本当受け答えに困ってしまう。 この質問自体にはそれほど大きな意味はなくて話を進めていく上で何気なく使う言葉なのだろうけど、何を話していいものか考えてしまう。 普段生活している上で劇的な何かがあるわけではなく、大して代わり映えのない毎日を送っている。その中においてあった出来事なんて大したことがあるわけでもない。 大したことでなければ何もわざわざ人にあれこれを話そうと思わないし、かと言って、代わり映えのない日々の生活を淡々と語ったところで仕方がない。 そんな風に考えていくと、質問に答えようがなくなってしまい、結果返答に困るのである。 他の人は「最近、どう?」と聞かれた時にどう答えているのだろう。 |
「淡々と筋肉トレーニングを記録するよ」 今日やったもの ・腕立て10回×3 ・背筋12回×3 ・ダンベル(10kg)5回×3 ・手首でダンベル(5kg)上げ下げ10回×2+5回×1 (持たなかった…) ・腹筋10回×3 (びっくりするぐらいに出来なくなってました) ・スクワット20回×3 |
「淡々と連続更新するよ」 何となく連続更新したい気分になったのでしようと思います。いきなり終わる可能性もあります。 |
「警官に絡む」 夜にウォーキングをしていたら、交番の前で止められている自転車に乗っている人がいました。どうも、無灯火で止められたらしく、そのことで警官に対してくってかかっていたようです。 断片的に話を聞いただけですが、どうも自分の自転車であるにも関わらず無灯火という理由で自転車の登録番号などを調べられたのが気に入らなかったようです。 それを見ていて、そんな風に警官に絡んでいる暇があったらもっと他にやることがあるだろうと思います。その人が無灯火で止められたのかどうかは定かではありませんが、無灯火で止められて文句を言っているならどうしようもありません。止められたくなければライトをつけておけば済む話です。 警官も警官でどうして止めたのか、どうして調べるのかその理由などを説明すればいいと思うのですけどね。 ちなみに私が止められた場合は大人しくしてさっさと済むように心がけています(笑) |
「年齢を重ねるということ」 まだ私が高校生の頃の話です。その頃からインターネットの世界に関係をし始めて、まがいなりにもサイトを持っていて色々と活動していました。 その中でチャットをすることがあったのですが、8割ぐらいは私よりか年上の人達でした。 それで話をしていると、当然のことながら何だかよく分からない話も出てくるわけです。大人の世界の話とでも言ったらいいのでしょうか。例えば恋愛の話なら付き合うか付き合わないの二択ではなくて、その間のような関係もあったりするというような微妙なものが分からなかったわけです。 その頃は高校生で、何だそれと思ったりそれは違うだろうなんて思ったりもしたのですが、今になってログを読み返してみると言っていることが分かるのです。 当時はピンとこなかったことが、今になりわかるようになって、年齢を重ねるというのは知識を増やしたり経験を増やしたりして、それによって自分の幅を広げていくことなのかなと思いました。 |
「過去に学ぶ」 いつだったか、たまたま小学生の頃の作文を目にする機会がありました。小学生の頃の日記というのは心情を書くというよりも、何をしました、何をしましたとつぶさに行動を書いている事が多いものです。 その時読んだものも例外ではなく、行動が事細かに書かれていました。それを読んでいて目を見張ったのが次の一文です。 「いただきますと言ってから、ごはんを……」 これを読んだ時に愕然とさせられました。 この作文を読んだ当時、「いただきます」や「ごちそうさま」といった食事の挨拶(と言って適切なのかな)を言っていませんでした。 これはいつの頃から言わなくなったのか自分でも分かりません。言わなくなっていた事にすら気付かず、疑問ももたずに過ごしていました。 その時に今までのままではいけないなと思い、それからは食事の挨拶をするようにしています。 またそれに付随する形で、「おはよう」だの「ただいま」だのといった挨拶もするようにしています。 こういうちょっとした一言は大したことではないのかもしれませんが、するのとしないのとでは大分違ってくるなと今は感じています。 |
「思考の変化を考えてみる」 人間、月日が経つと結構考えが変わるもので、変わった事を意識することもあれば、結構知らず知らずに変わっていったりもします。 例えば昔はAという考えをもっていたのが、段々変わっていってBという考えを持つようになったとします。 そうなると、昔持っていたAという考えを「青いな」と思ったり、「まだまだだったな」と思ったりして否定しはじめます。そしてBという考えこそが正解だというように思ったりするようになります。 そして、Bという考えをもっている時に誰かがAという考えを言ったならば、その人に対して「まだまだだな」と思ったりするのですが、果たしてそうなのでしょうか。 思考が変化する過程で正解に近づいたように感じますが、実はそれは正解でも何でもなくて単に変化しただけなのです。 単に変化しただけなのだから、Aという考えもBという考えもどちらも同じ立ち位置にあるわけです。Aという考えが”正解”から遠くて、Bという考えが”正解”に近いわけではありません。 そうであるなら、Bという考えをもった時にAという考えを自ら否定してしまうのではなくて、肯定する形でその考え方をどこかに留めておいてみるといいのかもしれません。 そうすることによって、少しでも多くの考え方について分かるでしょうから。 |
「回数なのか」 連続更新しながら、ちょっと自分の連続更新のあり方について考えてみました。 一頃連続更新している所をよく見かけ、連続更新されているのを見てみると色々と形があるようでした。短文だけど回数をこなしているもの、その場その場での心境なんかを書いたもの、とにかく回数を目標においてこなしているものと様々です。 それらを見ると確かにその時間その時間で更新している人の様子というのが感じられます。そして、それをその時間に追いかけている人は共有感のようなものがあります。 これは確かに見ている側からしても、その体験を共有している感覚が面白いのでしょうからいいのでしょう。ただ、後から読んだ人にとっては面白くないでしょう。 一方、私のしようとしている連続更新はある程度形になったものをいくつも更新しようと考えているのですが、これだとその場その場の臨場感のようなものは出てきません。また、連続更新を追いかけている人にとっては共有感というものがないのかもしれません。 でも後から読んでも、面白くないということはないはずです(中身がそれ相応のものになっていれば)。 先に挙げたようなのとは違った連続更新をしようとしているのですが、どうしてこうしようと思ったのかといえば、連続更新が先に挙げたようなやり方のものばかりで、何か他のやり方はないものかと思って、今のような更新をしようと思いました。 私のしている更新の場合臨場感のようなものはありませんが、見ている人が少ない中で、告知なしでやっているものですから、こっちの方がここを見ている人にとっていいのではないかなと思います。 見ている人が居ないような状況ならわざわざ連続更新する必要もないんじゃないかと思う人も居るかもしれませんが、これはまあ、私がしたくなったからしているだけです。他に理由はありません。 |
「死について考えてみる」 よく「死にたくない」なんてことを言う人が居ますけども、心理として分かります。ただ、私の場合死に直面しても「死にたくない」と思う事はあまりないかななんて思っています。 実際死に直面したことがないからかもしれませんけど、自分が死ぬことに関しては、その時がくれば仕方ないことだと思ってしまうのではないかと考えています。 自分が死んだ場合確かに自分の人生はそこで止まってしまいますし、それまでの何もかもが終わってしまうのですが、自分にはその後は分からないはずです。 幽霊やら天国やら地獄やらと死んだ後も色々とあるように言われていますが、私は死んだ瞬間に全て終わってしまうのではないかなと思っています。終わってしまえば後がどうなっていても、分からないことです。 そう考えているせいか自分の死に対してはそれほど頓着しないのですが、自分の以外の親しい人が死ぬとなると話が変わってきます。 例えば友人が亡くなったとします。そうすると、自分は生きているにも関わらず、相手はもうこの世に居ないわけで、それまであったことは全て出来なくなります。 何気ない会話をしたり、酒を飲みあったり、ばかみたいな話をしたりと何もかもをどれだけ望んでもできなくなるわけです。これはまあ自分が死んだ場合も同様なのですが、相手が亡くなった場合は、自分の人生が続いているのです。 自分が死んだ時のようにそこで終わってしまうかもしれないのではなく、まだ終わりません。しかしながら、相手はもうこの世には居ないわけです。これはたまりません。実際そうなったら、精神的にかなり堪えることでしょう。 こういう風に考えると、自分が死ぬよりも親しい人が亡くなった場合の方がいやだなとそう思うのです。 |
「人からあれこれ言われるということ」 たまに他人が自分についてどう思っているか聞く機会がありますけど、それを聞くと面白いなと思います。 それは自分自身で考えている自分と比べると相手にとっては別にうつっていたり、または自分の考えている通りの答えだったりと様々な反応があります。 どうして”面白い”と感じるのかといえば、普段聞けないことで貴重だというのが一点。考えもしなかったような意見が聞けて参考になるというのが一点。あと、人の考えなどを知ること自体が好きだというのがあると思います。これらの理由から”面白い”と感じているような気がします。 結構自分よりも他人の方が自分についてよく知っていたりして、自分自身勉強になったりするものです。聞いた意見を上手いこと自分の中に取り入れることができれば自分自身を改善できるでしょうしね。 欠点を指摘されたりすると機嫌が悪くなったりしますが、それすらも興味深く聞くことができればいいような気がします。 |
「自分にとっての当たり前は他人にとって当たり前ではない、というのは当たり前」 結論がいきなり題名に来てしまっているのですが、そう思わされることが過去にありまして、それについて書いてみようかなと思います。 以前ある方(Yさんとしておきます)とチャットで話していた時のことなんですけど、話の流れで私がオフ会で初めて会った人達を泊めたという話をしたんです。そのオフ会で初めて会った人達というのは、遠方から来ていて泊まる所もないと言っていたので「では、私の家に泊まりにきませんか?」と言ってみたのです。 で、この事を話したらYさんが「自分ならやらないな」ということを言っていて、私の行動を「凄いな」と言っていました。 私にしてみればオフ会で初めて会った人を泊めるというのはなんの抵抗もない行動だったのでそれが不思議だったのですが、Yさん曰く「他の人のことまで考えているのが凄い」とのことでした。 Yさんだったら私のような行動は、頼まれてこそやるかもしれないけど、そうでない限りはまずやらないと言っていました。その時に、自分にとっては当たり前(オフ会で初めて会った人を泊める)は、他の人にとって当たり前なのではないんだなと思わされました。 そんな昔の話。 |
「淡々と運動を記録するよ」 今日した運動 ・腕立て 11回×2 12回×1 ・背筋 15回×3 ・ダンベル(10kg)7回×2 10回×1 ・手首でダンベル(5kg)内側に曲げる20回×3 外側に曲げる10回×3 ・腹筋 20回×1 25回×2 ・スクワット 20回×3 ・ランニング 2.5kmぐらい …一体何のためにしているのか、それが問題。 |
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